礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.07.24

御業を成し給う主

ヨハネ6:1-15

イエスは五つのパンと二匹の魚で五千人の空腹を満たされた。過越の祭が間近な時、イエスは目を上げ、群衆をご覧になって深く憐れまれた。彼らは主の恵みを求めて、熱心に、飢え渇いて主のもとに集まってきた。

主はピリポに「どこからパンを買って来て…」(5節)と、彼の信仰を試そうとして尋ねられた。主はご自分では何をしようとしておられるかご承知だった。彼が何を信じているか、どれだけ信じているかを見ようとされたのだ。主は私たちの信仰を試される。どれだけ本気で信じているかを試そうとされる。

彼は「二百デナリのパンでは足りません」(7節)と答えた。ごく常識的な答えだ。男だけで五千人、女性・子どもも合わせれば一万人以上の数を見れば、食料調達は無理だ。しかし、それは信仰による応答ではなかった。

アンデレは、少年の差し出した五つのパンと二匹の魚について、「こんなに大勢の人々では…」(9節)と、消極的、否定的な意見を述べた。少年のパンと魚は、主への精一杯の愛だったのだが、弟子たちは、そんなものが何になるかと鼻であしらった。マタイでは「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません」(マタ14:17)とある。

ここに彼らの問題点が浮き彫りになっている。第一に、彼らは現実しか見ていない。多くの群衆とわずかの食料という、動かしがたい、絶望的な現実にのみ目を奪われている。第二に、共におられるお方が、水をぶどう酒にお変えになった(ヨハ2:)全能のイエスであることを忘れている。第三に、少年の単純で純粋な愛を無視している。現実にのみ目を奪われ、主を見失うと、消極的、否定的な結論しか出せない。そして、単純に主を信じ、純粋に主を愛そうとする人を軽んじる。

主は弟子たちの信仰を見ようとされたが、彼らの信仰は結局その程度だった。信仰と言えるものではなく、単なるこの世の常識に過ぎなかった。

主は「人々を座らせなさい」(10節 マタ14:18「それを、ここに持って来なさい」)と言われた。主は、信仰のない彼らを憐れまれた。ここで驚くべきことが起こった。わずか五つのパンと二匹の魚が群衆に行き渡り、一人も漏れることなく全員が満腹し、さらにパン切れが十二かごに一杯になったのだ。前代未聞の出来事だ。欠乏は完全に満たされた。

イエスは、あり余る霊的な祝福を与え給う。それは、①罪からの救いだ。神は罪人の私たちのために御子を十字架におつけになった(2コリ5:21)。ただ罪を悔い改め、十字架を信じる信仰によって、罪の赦しが与えられる(1ヨハ1:9)。②汚れからの潔めだ。救われた後も、なお神に対して敵対する古い自分に死んで、キリストが内に生きてくださるという信仰に啓かれる時、神の前に聖い魂とされる(ガラ2:19b,20a)。③勝利の歩みだ。弱い自分だが、主に内から強めていただきながら(ピリ4:13)、罪と世とサタンに対抗して進んで行くことができるのだ。④一切の必要の満たしだ(ピリ4:19)。全き救いを与えてくださり、さらに生活の上でも全てを供給してくださる主を知るのだ。⑤そして、リバイバルの御業だ。この終りの時代に、多くのクリスチャンと教会が回復され、また多くの魂が救われてくるのだ(エゼ47:9)。

主は御業を成してくださる。主はご自分が成そうとしている事をご存じだ。その上で私たちの信仰を試される。信じる者になりたい。