天の開かれた歩み
マタイ3:13-17
イエスが公生涯に立ち上がる前に通らねばならなかった所が2箇所あった。それはヨルダン川と荒野だ。
バプテスマのヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授けていた。彼の使命は救い主の道備えをすることだった(3:1-3)。彼はヨルダン川でバプテスマを授けながら、人々に罪の悔い改めを迫った。人々は続々と彼のもとへ行き、洗礼を受けていた。
そこへイエスが来られた。ヨハネからバプテスマを受けるためだった。イエスには悔い改めるべき罪など一つもなかった。主は罪なき神の御子だった(1ペテ2:22)のに、ヨルダンに下られた。それは、私たち罪人の低さにまで下られたことを表す。
ヨハネはイエスが来られたのを見て驚き、とどめようとした。しかし、イエスは彼に「このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」(15節)と言われた。「正しいこと」とは神の御心に沿ったことという意味だ。主はどこまでも神の御心に従われたお方だった。
イエスが水から上がられたとき、3つの出来事が起こった。①天が開けた。②聖霊が下られた。③天から御声があった。特に「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(17節)との天からの御声は印象深い。神は、これからイエスを公生涯に遣わされるに当たって、信任の御声をかけられたのだ。
小島伊助師は、“これはイエスだからかけられた御声と思ってはならない。すべての贖われたクリスチャンに神がかけたいと願っておられる御声だ”と語られた。こんな私たちにも、この御声がかけられるとは、なんと驚くべきことか。
神は、どういう魂にこの御声をおかけになるか。第一に、明確に救われた魂だ。謙虚に自らの罪を認め、悔い改め、キリストの十字架を信じて、はっきりと罪の赦しをいただいた魂だ。神はキリストの十字架の血をもって、私たちの罪を徹底的に赦してくださる(ミカ7:19,イザ38:17,イザ44:22,エレ31:34)。罪の赦しがあいまいなままでは、先に進むことは出来ない。
第二に、心から主を愛し、主に従っていこうとする、謙遜で忠実な魂だ。救われてなお御言葉の光に従っていくと、神の御心に従うよりも自分の都合を優先させたい自我があることに気がつくはずだ。
1テサロニケ5:16-18の御言葉が指標になる。いつも喜べない自分、絶えず愛をもって祈れない自分、どんな事でも感謝できない自分であることがわかる。そのままでいいのかと問われれば、そんな不勝利のまま終わりたくないと思うだろう。
そこで私たちが行くべき所は、キリストの十字架だ。古き人をキリストと共に十字架につけ、己に死んで、キリストが我が内に住まわれるという信仰に啓かれた時(ガラ2:19b,20a)、私を愛してくださった主を何にも勝って愛し、どこまでも喜んで主に従っていこうとする魂とされる。
私たちは神から「これはわたしの愛する子…」と言っていただく魂となりたい。そういう一人ひとりが集められた教会となりたい。主に愛され、主に喜ばれる教会になりたい。それは、贖いの恵みを感謝している教会、愛をもって赦しあい仕えあう教会(1ヨハ4:18-20)、主の再臨を待ち望んでいる教会だ。
内に恵みを頂いて、天の開かれた歩みをしたい。困難は来る。戦いはある。しかし、神がご自身の血をもって買い取られ(使徒20:28)、「わたしはこれを喜ぶ」と信任された教会は、そして私たち一人ひとりは、必ず神の愛によって守られ、勝利することが出来る。