礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.06.26

神に会う備え

アモス4:1-13

今日開かれているアモス書の著者であるアモスは、南ユダ王国出身でありながら、北イスラエル王国に遣わされた預言者だった。彼が活動した時代、北イスラエル王国は領土を拡大し、繁栄を謳歌していた。だが、繁栄の裏では宗教的、霊的な堕落が起こっていた。

霊的堕落の発端は、偶像礼拝にあった。周辺の国々に倣って持ち込まれた異教の神々を、人々は崇拝し、また同時に、真の神への礼拝も行っていた。当然、このような彼らの礼拝は形骸化した。礼拝の場所や、礼拝の立派さは、関係ない(4,5節)。神がご覧になるのは、礼拝者の心だ。また、彼らの神に対する不真実さは、神の語る預言に対する態度にも表れていた。 彼らは、神の預言を選り好みし、自分たちに都合の良いことを語る者を身近に置き、そうでない者は排除した(7:14, 2歴18:12)。アモスは、そのような彼らのところへ遣わされ、神の預言を伝え、神の御心を示し、神に立ち返るようにと語った。しかし、彼らは拒み、神に立ち帰ろうとしなかった(6,8,9,10,11節)。

このような姿にも関わらず、いや、このような姿だからこそ、「神と会う備えをせよ」(12節)と語られている。神はどんな者も見放さず、自らの姿を見るように迫られる。では、「神と会う備え」とは何か。

  1. 心を神に向けること

自分の意志と信仰を働かせて、私たちの心を神に向けることだ(1サム7:3ab)。そのためには、私たちの心を惹く神以外のものから心を離さなければならない。神と偶像は同居できないからだ(2コリ6:16a)。

  1. 神に救いを確立していただくこと

キリストの救いをいただき、自分の中に救いをはっきりとしていただくことだ。私たちは、罪のために滅びゆく存在だった。しかし、キリストが、十字架と復活による救いの道を与えてくださった。キリストの十字架と復活を信じるものは誰でも、罪の赦しと滅びからの救いをいただくことができる。救いとは、王であるキリストを救い主として心に迎えることだ(ゼカ14:8,9, コロ1:13,14)。それまで心の王座にふんぞりかえっていた罪を悔い改めて除き、キリストに堅く座していただくことだ(箴25:5)。また、救いとは、罪と滅びの泥沼から引き上げていただき、キリストという巌の上に堅く立たせていただくことだ(詩40:2)。こうして、キリストの救いによって、私たちの歩みは確かにされ、神に喜ばれる道を歩み始めることができる(詩37:23)。

  1. 揺るがない霊をいただくこと

救いの道を歩み始めたものは必ず、自分の真相に突き当たる。私たちは、自分の姿を省みて、自分の汚れた肉の本性を認める必要がある。認めたならば、それを十字架の上に始末して、捨てる(ガラ5:24)。そして、キリストを待ち望むならば(詩51:10)、キリストは私たちの内に臨んでくださる。キリストは、私たちの内に揺るがない霊を与え、私たちを新しくしてくださる。内に働いてくださるキリストによって、私たちは揺るがない者となることができる(詩57:7)。

  1. 真昼のように神の栄光を現すこと

内にキリストが働いてくださるならば、私たちは、真昼のように神の栄光を表し、神の祝福を持ち運ぶことができる(箴4:18)。光の子どもとして闇に覆われたこの世を歩み、私たちの姿を通して、神の光を燦然と輝かせることができる(1テサ5:5, ピリ2:16, 1コリ6:20)。

私たちも、私たちの神と会う備えができているか、自らを吟味したい(2コリ13:5)。どのような姿で神の前に歩んでいるのかを省みたい。そして、備えのできている者となりたい。