礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.05.01

だれを遣わそう

イザヤ6:1-13

イザヤの時代、ユダの国は政治的には安泰で、ウジヤ王の下、ソロモン以来の繁栄ぶりを見せた。しかし、霊的には、バアル信仰が蔓延し、預言者たちは堕落した。神殿行事は形式化し、表面的な礼拝が繰り返された。イザヤは、そのような機械的な宗教儀式を糾弾し、自発的な礼拝に戻るよう呼びかけた。

本章は、イザヤの転機となった場面だ。名君ウジヤは、傲慢の罪に陥り(2歴代26:16-21)、神に裁かれてツァラアトに冒され、ついに死んだ。王座は空席になった。若い預言者イザヤは失望のうちに神殿にたたずんでいた。ところが、彼はそこで高く上げられた主の幻を見た。

現実の王座は空席だが、主が玉座に座し、衣の裾が神殿に満ちた。真の王なる神、永遠の御方の顕現だった。セラフィムが2つの翼で顔を、2つの翼で足を、2つの翼で飛びかけた。これは、礼拝と奉仕の姿だ。信仰と謙遜と従順の姿勢だ。私たちの礼拝と奉仕のあり方もこれであるべきだ。

セラフィムは「聖なる」を三唱した。聖い御方に対する心からの賛美だ。この声で神殿の敷居の基が震え、煙が充満し、神の栄光が満ち溢れた。聖なる御方への心からの賛美は、神を喜ばせ、私たちは栄光を拝することができる。

イザヤは、「ああ、私は滅んでしまう」(5節)とうめいた。この理想的な礼拝の中で、神の聖さに触れ、自らの汚れに戦慄したイザヤは、「滅んでしまう(もうだめだ)(3版)」とうめかざるを得なかったのだ。

彼はこれまでも預言活動をしてきた。エルサレムに裁きのメッセージを語ってきた。それなりの働きをしてきた。しかし、自分を義とする傲慢があったのだろう。聖なる神の臨在に触れ、この傲慢が自分の汚れだと気がついたのだ。滅びるばかりだと徹底的に絶望したのだ。これが、神が設けられた聖めの時だった。

セラフィムが、祭壇の燃え盛る炭火で、彼の唇にひと触れした(6節)。唇は心の汚れが最も表れるところだ(ヤコ3:5-8)。とくに預言者は唇を働かす。聖められねばならない最大の部位だろう。セラフィムは「見よ。これがあなたの唇に触れたので…」と言った。聖潔(きよめ)の宣言だ。炭は、祭壇で焼き尽くされた犠牲の燃えかすだ。犠牲が祭壇に乗せられるためには、血が流されたはずだ。したがって、新約の光で見れば、イザヤはキリストの十字架の血と聖霊によって聖くされたことになる。

彼は、自分の傲慢には目を閉じ、民の罪ばかり指摘してきた汚れた自我が十字架に付けられ、聖霊が内に臨まれた。彼の汚れは口と心から焼き滅ぼされたということが言える。

彼は「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか」(8節)という主の御声を聞いた。これは主の重荷であり、滅びゆく魂を惜しむ主の心だった。彼は即座に「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応えた。汚れが取り除かれたから、躊躇(ちゅうちょ)なく応答することができたのだ。

神の御心は、一人でも多くの魂が救われることだ(1テモ2:4)。そのために誰を遣わそうかと見渡しておられる。私たちも、イザヤのように、十字架と聖霊による聖めをいただき、主の重荷を自分の重荷とさせていただいて、「我ここにあり、我を遣わし給え」と応える者となりたい。

遣わされるところは容易ではないかもしれない。しかし、召してくださる主は真実なお方だ。困難であっても、主が責任をもって最後まで全うしてくださる。私たちはただ、主の御声にお応えしたいと願って、御前に出て行きたい。