礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.04.24

死んでも生きる

ヨハネ11:17-44

キリストの受難と復活から少し遡って、ラザロが復活させられた場面が開かれている。キリストは、そのご生涯で数々の奇跡を示されたが、その中で最も驚くべきことが死者の復活だった。数は少なかったが、当時の社会に強烈なインパクトを与えたことは間違いない。なぜ、このような奇跡を起こされたのか。ご自身のよみがえりの予表というだけではない。キリストこそ、人を絶望へと突き落とす死に対して、勝利をとることのできるお方なのだ(1コリ15:54-57)ということ、そして、真の意味で人を滅びのどん底から生き返らせ、永遠の命を与えて、神のものとして生かすことのできるお方なのだ(ロマ4:25,1コリ15:16,17)ということを、私たちに悟らせるためだ。

本日は、キリストがラザロの姉マルタに対して言われた、「死んでも生きる」(25節)という一言に注目したい。この短い一言に、深いメッセージが含まれているからだ。直接的にはラザロの復活が予告されていると読めるが、私たちにとっては、これは何を指しているのか。

まず、罪の赦しの救いをいただき、永遠の命に生きることだ。目に見える肉体は、やがて死を迎える。だが、キリストの救いをいただいている者は、魂が生き続ける。私たち人間は、罪のために、魂が滅んでしまう存在だった(ロマ6:23)。私たちの罪を赦し、滅びから救うために、キリストは十字架で死に、よみがえられた(1ペテ2:24)。罪を悔い改めて、キリストを信じる者は誰でも、キリストの救いをいただき、「死んでも生きる」者となることができる。救われた者にとって、死は終わりではない。永遠の命に生きる希望が与えられている(1ペテ1:3)。私たちも、まずこの救いをいただき、死んだ者から生きる者になりたい。

次に、肉を十字架につけて死に、内にキリストに生きていただくことだ。「死んでも生きる」は、“死んだら生きる”ということでもある。キリストは、神殿の破壊と建設を預言された(ヨハ2:19-21)。ご自身という神殿を指して言われたことであり、直接的には、十字架と復活の予告だったのだが、私たちの内側に行われなければならない破壊と建設のことでもある。救われた後なおも、私たちの内側には、罪を慕って離れない根、汚れに染まっている本性に満ちている。これらの肉を十字架につけて始末するならば、キリストが私たちの内に臨み、生きてくださる。破壊と建設、死とよみがえりだ(ロマ6:4-8, ガラ2:19,20)。こうして、内にキリストが生きてくださる者は、もう自分の肉を喜ばせることはしない(ロマ6:12,13)。自分のためにではなく、キリストのために生きる(2コリ5:15)。私たちも、内に破壊と建設のわざをなしていただき、内に主に生きていただく者になりたい。

さらに、神の御前を生きることだ。明確な救いをいただき、内にキリストに生きていただいた者は、終わりの日によみがえらせられる。それは、神の御前に立つことができるということだ(2コリ4:14)。だが、それは死んだ後だけのことではない。私たちは、身は地上にありながらも、よみがえりの主と共に、神の御前を生きることができる。天に国籍を移された者として、やがて迎えに来てくださる主を待ち望みながら(ピリ3:20)、神の御前で御心を求めて生きる(エペ2:6,コロ3:1,2,1ペテ4:2)。この地上において、神の御前で御心に従って生きた者は、地上が過ぎ去っても、神の御前で生き続ける(1ヨハ2:17)。私たちも、よみがえりの主と共に、神の御前を生きる者となりたい。

イースターからの出発を果たした私たちは、「死んでも生きる」と語り続けてくださるキリストを仰いで進んでいきたい。