礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2022.02.20

わたしの臨在がともに行く

出エジプト33:7-23

モーセによって率いられた出エジプトを果たしたイスラエルの民は、荒野の旅を続ける道中、偶像礼拝の罪を犯した。モーセの必死のとりなしと嘆願によって、神はご自分の臨在が伴うことを約束された。臨在が伴うということは、神の御顔の前を歩むということだ。

本日の箇所から、神の御顔をキーワードにして、神の臨在を与えていただく条件を学びたい。

 

  1. 聖別

神は、「友と語るように」(11節)、モーセに向き合われた。「神の友」といえば、アブラハムを連想する(ヤコ2:23, イザ41:8)。彼がそのように呼ばれるためには、神の取り扱いが必要だった。神は、ご自分の御顔の前を歩み、「全き者」となるようにと、彼に命じられた(創17:1)。神は私たちをも友として接してくださる(ヨハ15:15)。だが、そのためには私たちが罪と汚れから聖別される必要がある。最初の人アダムは、神と顔と顔を合わせて生きる存在として創られた。しかし、罪が入り、人は神の御顔を避ける存在になった(創3:8)。アダムの子カインは、弟アベルを殺し、自らの意志をもって神の前に顔を伏せる者となった(創4:5,6)。神の御顔を避ける者の末路は滅びだ(創4:14)。この絶望的な運命から人類を救うため、キリストが十字架にかかってくださった。十字架は私たちに、罪の赦しと、神の御顔を拝する特権を与える。さらに、神は私たちを、内側に残る汚れからの聖別へと導く。

本日の箇所の直前、32章には、イスラエルの民が罪を犯す姿が描かれている。彼らは自分たち「に先立って行く神々」(32:1, 顔の前に先立って行く)を求め、「その前に祭壇」(32:5, その顔の前に祭壇)を築いた。意図的に神の御顔を退け、神の忌み嫌われる偶像に置き換えたのだ。私たちも、神以外のものに神を置き換える罪を犯していないか。自分が大切にしているものを偶像にして、神よりも優先させていないか。

 

  1. 明け渡し

神の臨在が伴う約束をいただいたモーセは、なおも食い下がった(15節)。これは、彼が神への絶対信頼と自己への絶対不信頼に徹していた姿だ。己を完全に神の前に屈服させて明け渡し、完全に神により頼んだ。ちょうど、ヤコブがペヌエルにおいて、神の使いと格闘したようにだ(創32:24)。ずっと己を固く握り締めて頑張ってきた彼を、全く神に明け渡すようにと導くため、神は彼に顔と顔とを合わせて向き合われた(創32:30)。また、ヨナは、神の御心が現されたにもかかわらず、それを不服とし、さらに、自分が固執することを当然とした(ヨナ4:9,10)。そんな彼に対しても、神は向き合い、ご自分の御心を教えられた。私たちにも、固く握り締めているものがないか。神の御前に自分のものを持ち出し、当然としていないか。

 

  1. 信仰

モーセは、栄光を見せていただけるよう、神に求めた(18節)。これは彼の信仰によるものだった。信仰は神をお喜ばせし、神は栄光を見せてくださる。ギデオンに、神は顔と顔とを合わせて会ってくださった(士6:22)。信仰どころか、疑心暗鬼の塊のような態度を取る彼を、神は取り扱い、信仰に立たせられた。エリヤもまた、モーセが見せられたのと同じような形で、神の前に立ち、信仰を回復していただいた(1列王19:11)。神々しい、目を見張るような事象を体験することではなく、神の「かすかな細い声」(1列王19:12)を聞き取ることこそが信仰を育てる秘訣なのだと、神は彼に教えられた。私たちは、神の前に静まり、神の御声を聞き取っているか。神の栄光を見せていただくほどの信仰が育っているだろうか。

私たちも、自らを聖別し、神に明け渡し、信仰を明らかにして、神の臨在の前を歩む者となりたい。