キリストにいのちを見出す者
マタイ16:24-28
今日の箇所は、イエスが弟子たちの前で初めて受難予告をされる記事(21節)と、それを聞いていさめ始めたペテロに対して、主が叱責しておられる記事(22,23節)に続いている。
まず24節を見たい。「わたしについて来たいと思うなら」というところに、背中が語源の言葉が使われている。同じ言葉が、直前の23節でイエスがペテロを叱責しておられる言葉「下がれ」にも使われており、直訳すると“私の背後に行け”となる。主は、サタンに向かって「下がれ」と言われた(マタ4:10)のと同時に、ペテロに向かっては“私の後ろに下がっておれ”と言われたのだ。
それは、自分の感情や感覚やポリシーなど、後生大事に抱えている自分のものを前に持って来るのではなく、主の背中が見えるところに下がり、主に従うようにと戒めておられるのだ。併せて、主が前面に立ってサタンと戦ってくださるから、主への信仰によって自らの中にうごめくサタンを見破るようにと教えておられる。ここから私たちも、自分は誰の後について行っているのかと問われたい。そして、キリストの後について行きたい。
続く25節の「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失」うとは、どういうことか。ここでの「いのち」とは、自分自身、自分らしさ、自分のポリシー、自分の主義主張などを指す。神を知らない人たちの間では、奨励され、評価される事柄だろう。しかし、それに固執し、執着する限り、永遠のいのちは損なってしまう。
では、キリスト「のためにいのちを失う」とは、どういうことか。クリスチャン迫害や弾圧の時代には、文字通り、キリストのために自分のいのちを投げ出した人たちがいたが、現代の私たちにとっては、これはキリストと出会い、自分自身をキリストの前に明け渡すことを示している。
まず、自分の罪を認め、悔い改め、キリストの救いをいただくこと(ロマ6:23)、そして、さらに、救われた後も内側に残る肉を十字架に始末し、キリストに内に臨み、働いていただくことだ(ロマ6:22)。このキリストの全き救いに与った者が、キリストにいのち「を見出す」ことができる(マタ7:7,8,14)。永遠のいのちの約束に生きる生き方だ。
ここまで来て、26節の真意が明らかになる。ここでの「いのち」は英語の聖書では“soul”(魂)となっている。肉体や、肉体のいのちが終わりを迎えても、なお残るものを指している。「全世界」とあるが、世にあるもの、世が提供する価値、世がきらびやかに見せる楽しみや安らぎなどのことだ。どんなにキリストの救いが語られ、神からのアプローチがされても、一向に耳を貸さず、心を向けず、あくまで拒み続け、世にあるものに固執し執着し続けるならば、「いのちを失」う、つまり、終わりの日に神の前に立つことができなくなる(黙20:12)。
「人は何を差し出せば…」とあるが、人にはなすすべなしだ(詩49:7,8)。ただ、キリストがご自分のいのちを差し出してくださったことにより、私たちは滅びから救い出された(詩49:15,ヨハ3:16)。私たちは、自らのいのちを投げ出し、私のいのちを贖ってくださった主に感謝したい(マル10:45)。そして、世とは一線を引いた立ち位置を貫きたい。なぜなら、永遠のいのちには代えられないからだ。
私たちは、何によって生きているのか。神の前における、今年の自分の歩みを振り返りたい。そして、新しい年も、キリストのいのちに生かされ、歩んでいきたい。終わりが刻一刻と近づく今、キリストにいのちを見出す者となりたい。