真の解放者イエス
イザヤ61:1-11
本章は、イザヤ書にある3つの「主のしもべの歌」(42章、53章、61章)の一つだ。ここには、解放を告げるしもべの姿が描かれている。
「神である主の霊がわたしの上にある…」(1節)とは、私たちを解放してくださる主イエスの姿だ。この箇所は、イエスが公生涯の始めに、ナザレの会堂で朗読されたところだ(ルカ4:17-21)。イエスは、ここに表されているしもべをご自分のこととして読まれた。
第一に、神のしもべの性格を見る。イエスは神から信任されたお方だった。イエスは会堂で「主の霊がわたしの上にある」と朗読された(ルカ4:18)。それは、ヨルダン川で聖霊に満たされたイエスの確信だった。私たちもこのように確信することができる魂でありたい。
第二に、神のしもべの働きを見る。イエスはどのような働きをされたか。①貧しい人に福音を宣べ伝えられた(1節)。魂が渇いているザアカイに満足を与える知らせを告げられた(ルカ19:10)。②心の傷める者に癒しを与えられた(1節)。取税人、罪人など軽蔑され、傷つけられていた者を救い、癒された。③捕われ人に解放、釈放を告げられた(同)。悪霊につかれた者を解放された(マル5:1-20)。④悲しむ者に慰め、喜びを与えられた(2,3節)。息子や娘を失い悲しむ者に慰めと喜びを与えられた(ルカ7:11-17、8:49-56)。
これらは私たちの姿だ。私たちは自らの罪によって、魂が貧しい者、心が傷む者、捕われ人、悲しむ者だ。イエスはそこから十字架の贖いによって解放してくださる。
「主の恵みの年」(2節)とは、ヨベルの年のことで(レビ25:8,10,11)、十字架の贖いの型だ。私たちは、イエスの血によって罪と滅びから解放され、自由にされるのだ。
「義の樫の木」(3節)は、キリストの救いを象徴する。私たちは、焼き捨てられる雑草のようなものであって、樫の木のようなものではなかった。何者かであったかのように思い上がってはならない(イザ51:1)。何の功もない、あるのは罪のみという者だった。しかし、そんな私たちを、神は御子を十字架につけるほど愛してくださった(ヨハ3:16、ロマ5:8)。この御子の十字架の贖いによって、私たちは罪の赦しが与えられ、価なしに、主の血の功によって義とされる(ロマ3:24、2コリ5:21)。
このように私たちを義としてくださった主は、さらに恵みの深みへと導いてくださる。救われてもなお神を悲しませる自己中心や傲慢など自らの汚れを謙虚に認め、主の前に出て十字架を仰ぐなら、主は私たちの魂を取り扱ってくださる。自らの汚れにどれだけ気がつくかだ。主を愛すると言うが、実は自分の都合の良い範囲内で、自分が傷つかない範囲内で、ということはないか。やはり最後は自分が一番かわいいのだ。
イエスが、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て…」(マタ16:24)と言われたことがあるが、自分を捨てるとは、主よりも己を愛する自分を献げることだ。己を愛し、己を憐れむ自分自身を十字架につけて己に死ぬなら、キリストが内に生きておられるという信仰で生きる者になる(ガラ2:20)。その時、私たちは肉のしがらみから解放され、真に自由な者となる(ヨハ8:36)。
これは主が行ってくださる御業だが、私たちの意志と信仰が求められる。すでに成し遂げられた贖いだが、こちらがどれだけ渇いて真剣に求めていくかだ(マタ11:12)。
主は私たちを罪と自我とこの世の枷(かせ)から全く解放してくださる。この解放者イエスを信じ、イエスに全てを献げて従いたい。
「主の恵みの年」(2節)、ヨベルの年は、主の再臨の時をも暗示している。キリストの花嫁である私たち、そして教会が、主に迎えられる大いなる喜びの時だ(10節)。真に解放された者として、その栄光の朝を待ち望もう。