礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.09.05

心を強くしかつ勇め

ヨシュア1:1-9

3節のヨシュアヘの神のみことばは、振起日を迎えた私たちへのみことばでもある。主はヨシュアに、ヨルダンを渡ってイスラエルに与える地に行けと語られた(2節)。出エジプトはイスラエルの歴史上、画期的な出来事だった。400年間の奴隷生活に終止符が打たれたのだ。そして彼らは今、さらに画期的な出来事の前に立っている。約束の地を前にして、前途を望んで希望に満ちている。エジプトを出たのは、ここに入るためだった。今までの患難辛苦も、今日のためだった。

ヨシュアは、主がお与えになる地を前にして、「心を強くしかつ勇め」と励まされる(6,7,9節文語)。時はモーセが死んだ後だった。モーセは民をエジプトから導き出し、シナイ山で受けた律法を民に与え、40年間、荒野で民を導いた偉大な指導者だった。彼なしに民はここまで来ることができなかった。

モーセは120才にして目もかすまず、気力も衰えなかった(申34:7,10)。これは彼の信仰に対する神からの報酬だった。その彼が死んだのだ。民の失望と不安は計り知れなかった。そんな時、ヌンの子ヨシェアが後継者に召された。当然彼に重圧がかかった。

まずモーセに比べれば彼は若輩で経験も少ない。また、成人男子だけでも60数万人の大所帯を率いなければならない(民1:46、26:51)。さらには、彼らはすぐに不平を言う不信仰の民だ(申9:6,7)。だからこそ、彼には励ましが必要だった。民も彼を支持した(16-18節)。こうしてヨシュアは、主の励ましと、民の祈りによって、民を約束の地に導き入れる指導者になった。

民をカナンに導き入れたのは、モーセではなくヨシュアだった。これには象徴的かつ重要な意味がある。モーセは律法を象徴し、ヨシュアは“主は救い”という意味から、新約でイエスを表す。民が約束の地に入ったのは、モーセによらず、ヨシュアによった。私たちが約束の恵みに入れるのは、律法によらず、キリストの恵みによる。

私たちに約束されている恵みとは、罪からの救いだ。私たちは罪のために魂が死んでいたものであり(エペ2:1)、罪の奴隷であり(ヨハ8:34)、行き着くところは滅びだった(ロマ6:23)。しかし、神の恵みにより、キリストの十字架を信じる私たちに、価なしに赦罪と義認が与えられた(ロマ3:24)。ちょうどイスラエルの民が子羊の血によって出エジプトしたように、私たちはイエスの血によって罪と滅びから救い出されたのだ。

救われた後の私たちは、民が荒野の旅を続けたように歩んでいた。私たちは彼らのように傲慢で、すぐに不平を言い、自己中心の姿を露呈するような、肉の奴隷だ。自分ではどうすることもできない。

しかし、キリストは十字架の上で贖いを完成された。みことばに聞き従っていくなら、救われてもなお神を悲しませる古い自分に対して、十字架において死んで、キリストが私の内に生きてくださるという信仰に開かれる。そして、喜んで神の御心に従って歩む者に造り変えられる。

これがキリストによる全き救いであり、私たちの入るべきカナンの地だ。導いてくださるのはイエスであって、律法ではない。律法ではなし得なかった事を主は成就してくださったのだ(使徒13:38,39)。十字架で成し遂げられた贖いのみわざを信じる信仰によって、私たちが頂く全き贖いだ。

主は「足の裏で踏む場所はことごとく、…与えている」と約束しておられる。恐れず、疑わず、信じて従おう。信仰に立ったヨシュアは、民に命令し、民も忠誠を誓った(16,17節)。私たちもこのように答えたい。

ヨシュアが選ばれた理由は、①いつもモーセに付き従った者だったから(出33:11)であり、②信仰のゆえ(民14:6-9)であり、③神の霊の恵みのゆえ(民27:18)だった。私たちも主に従い、主に信頼し、御霊の励ましをいただいて前進していこう。