イエスに従いて
マルコ10:46-52
イエスは、十字架を目指して弟子たちとエルサレムに向かう途中、エリコの町を通られた。すると道ばたに、盲人バルティマイが坐って物乞いをしていた。彼はこれまで、どれほどの悲しみ、辛さを味わってきたことか。親・兄弟から捨てられ、社会から無視され、友人もいない。絶望的な人生を歩んできた。
その彼が、イエスが通られると知って「ダビデの子…」と叫び出したのだ。イエスは確かにダビデの家系から出たお方だ(マタ1:1)。しかし、単にダビデの子孫というだけではない。永遠の王座に着く救い主と預言されて来られたお方だった(2サム7:12,13)。バルティマイはイエスを救い主と信じて叫び求めたのだ。
多くの人は黙らせようとした。当時、身体の障碍は神の祝福から外されているというのが社会通念だったことが背景にある。しかし彼はますます激しく叫び続けた。自分の前を救い主が通られるのだ。今を逃したら二度と機会はないかもしれない。そう思って、彼は背水の陣を敷いて叫んだのだ。
私たちもこれほどの渇きを持ちたい。“どちらでもよい”とか、“今でなくてもよい”とかではなく、“どうしても欲しい、今恵みをいただきたい”という渇きを持って出たい(2コリ6:2)。
イエスは立ち止まられた。それまでバルティマイの叫びが聞こえなかったはずはない。彼の求めを待っておられたのだ。主は、彼の強い信仰と激しい渇きを見て立ち止まられたのだ。
主は私たちの信仰をごらんになる(マル2:5)。そして主は私たちの叫びを必ずお聞きになる。ただ、どれほど真剣に、本気で求めるかを見ようとして待たれることがある。
彼は主に呼ばれて、今まで着ていたボロの上着を脱ぎ捨てて、喜んで御前に出て行った。“もう古い自分はいらない、全く新しくされるのだから…”という信仰もこめられていただろう。主の御前に出て行くのには、捨てるべきものを捨てなければならない。上に着るのではなく、新しく着替えるのだ(エペ4:22-24、コロ3:9,10)。
イエスは彼に、何をしてほしいのかを尋ねられ、彼は「わが主、見えんことなり」(51節文語)とはっきりと答えた。主の問いに明確に答えられたのは、明確な求めがあったからだ。弟子たちは、何を求めているか分からなかった(38節)。真に求めるべきものを知らなかったのだ。しかし、バルティマイは、何よりも自らの目が開かれることを求めるべきだと知っていた。
私たちも霊の目が開かれることを求めたい。霊の目が開かれたら、何がわかるだろうか。①自らの罪、汚れの深さがわかる(詩51:3-5)。②イエス・キリストの十字架による救いがわかる(ロマ5:8)。③私たちのために備えられている永遠の御国の希望がわかる(ヨハ14:1-3)。
バルティマイは信仰によって救われた(52節)。彼の信仰とは、(1)イエスを救い主、わが主と信じる信仰。(2)諦めずに求め続ける信仰。(3)自分の求めをはっきりと申し上げる信仰だ。
裕福な青年は、イエスのもとに永遠のいのちを求めてき来たが、悲しみながら立ち去った(22節)。イエスの弟子たちは、毅然たる態度でエルサレムを指して進まれる主の後ろから、驚き恐れながら従った(32節)。それに対して、バルティマイは喜んでイエスに従って行った(52節)。ヨハネ黙示録に注目すべき一句がある。「彼らは、子羊が行く所、どこにでもついて行く」(黙14:4)。栄光の朝、子羊なる主イエスの行かれる所どこにでも従って来た者として数えられたい。
大切なことは主に従うことだ。眼が開かれたら真に従うことができる。恵みを求め、意志を働かせて従って行こう。