イエスから目を離さないで
ヘブル12:1-13
私たちの歩みは信仰に基づいている。それは、イエスを目当てに歩む歩みだ。信仰による歩みこそ、私たちの基本的な姿勢だ。
私たちの信仰は二面ある。①成し遂げられた贖いのみわざを信じる信仰と、②主に従っていくために持つべき全能の神を信じる信仰だ。
1.贖いのみわざを信じる
私たちの贖いは、イエスの血に基づいている(10:19)。罪なき神の子が十字架にかかり、私たちの罪のために贖いの死を遂げられた。私たちは、罪の悔い改めと十字架を信じる信仰により、過去の罪が赦される恵みをいただいた。
さらに、私たちが聖なる者とされる道も備えられている。救われてもまだ神に喜ばれない古き人が十字架で始末され、キリストが内に生きてくださるという信仰で歩む者になるという全き救いが、私たちに備えられている。なぜならキリストが十字架で私たちの贖いを完成されたからだ(ヨハ19:30)。あとは私たちが信じるかどうかだ。私たちの信仰の土台は、キリストの血に対する信仰だ。
「創始者」(2節)は、リーダー、先駆者、基礎を置く者などという意味を持つ語だ。主は十字架の全き贖いをもって、私たちの信仰を始めてくださった。十字架の主を仰いで、備えられている全き救いをいただきたい。そこから新しい、勝利ある歩みが始まる。
2.全能の神を信じる
「完成者」(2節)とは、完成する者、私たちの信仰を仕上げてくださる御方ということだ。私たちの信仰は、全能の神を信じる信仰によって完成される。
高齢であるのに子どもが与えられるという約束を与えられたアブラハムは、無から有を呼び出される神(ロマ4:17(口))を信じ、望み得ないのになおも望みつつ信じた(同18節(口))。変貌山から下りて来られた主は、悪霊に憑(つ)かれた子を持つ父親に、「信じる者には、どんなことでもできるのです」(マル9:23)と言われた。人間的には絶望状態であっても、主には出来ると信じる信仰を、イエスは私たちに与えてくださる。このイエスから目を離さないで、仰ぎ見つつ走っていきたい。
「目を離さないで」とは、目を釘付けにして、視線を固定して、目を逸らせないでという意味だ。目先の現実に目を奪われず、先を進み給うイエスに目を留めて従っていくのだ。そのために必要なものは忍耐だ(1節)。不信仰の罪は足にまとわりついてくる。私たちが信仰をもって走り出そうとする時、私たちにまとわりつき、様々な現実を見せつけて、歩調を鈍くしようとしてくるが、忍耐して、主に目を注いで従っていきたい。
「前に置かれている競走」、つまり私たちが参加すべき競走を完走できるように、①先導者イエスが(3節)、②雲のように取り巻く証人が(1節)、③訓練が(5-11節)備えられている。だから、祈りの姿勢を正し、主の前に座り直そう(12節、イザ33:2、詩46:5)。
神は私たちの信仰を試される。イエスから目を離さないで、主を仰ぎ見て進むかどうかをごらんになる。現実がどうであれ、真実な主に目を留めて進もう。
ヨシュアが難攻不落の要塞エリコを攻め落とすことができたのは、主にすべてを明け渡したからだ(ヨシ5章)。私たちの前にも大きなエリコのような大きな壁が立ちはだかるかもしれないが、イエスを仰ぎ見る信仰に立てば、主は必ず勝利させてくださる。