霊とまことによる礼拝
ローマ12:1,2
本書は二つの部分から成り立っている。前半(1章~11章)の教理的部分(私たちはどのようにして罪から救われ、聖なる者とされ、栄光の望みに生きる者とされるかということ)、後半(12章~16章)の実践的部分(贖われた私たちはどのようにして生きていくのかということ)だ。
実践的部分の冒頭である12章1,2節には、私たちが霊的な礼拝を献げるべきことが勧められている。贖われた者の生き方は、まず礼拝から始まる。霊的な礼拝とは、第一に、神に喜ばれる献げ物として献げる礼拝だ。神が喜ばれる献げ物とは、砕かれた心(詩51:16,17)、御言葉を信じてすぐに従う魂だ。
そのような魂であるためには、キリストがどういうお方かがわかっていなければならない。キリストは実に心の砕かれたお方で、神様の栄光を捨ててこの世に来られ、徹底して御心に従い、十字架の死に至るまで従順に歩まれた。このお方の心がわかったなら、つまり、このお方の心を自分の心としたなら(ピリ2:5)、私たちも砕かれた魂になる。
第二に、聖なる献げ物として献げる礼拝だ。神は私たちをご自身の栄光のために用い得る献げ物としたいと願われる。しかし、私たちが汚れた肉のままでは、主は用いることができない。キリストの血潮によって聖くされ、もはや自分のためには生きず、自分のために死んでよみがえられた方のために生きる生涯を送りたい(2コリ5:14b,15)。
第三に、生きた献げ物として献げる礼拝だ。生きているか否かは、神の語りかけに応答できるか否かでわかる。敏感に御声を聞いて直ちに応答する、これが神との交わりだ。語りかけを聞いているのに、知らん顔をしたり、聞こえないふりをしたりせず、聞いて謙虚に受け止め、素直に従っていく生きた魂となりたい。
こういう魂にされて、私たちは真に自分自身を主に献げることができる。これが霊的な礼拝だ。礼拝は、恵みを受ける場であると同時に、献身の場だ。神に喜ばれる、聖なる、生きた献げ物として礼拝を献げたい。形だけの礼拝、自己満足の礼拝ではなく、神がお求めになる礼拝を献げたい(ヨハ4:23,24)。神の前にひれ伏し、全てを献げたい(詩46:10)。
この世の力は凄(すさ)まじい。知らない間に入り込み、福音から純粋性を奪う。福音の純粋性とは、キリストの十字架と復活の福音だ。それを水増しし、割り引こうとする力が働くが、決して妥協してはならない(2節、箴22:28)。そのためには、礼拝の姿勢が徹底されなければならない。
神の御心を知る者になりたい(2節)。そのためには心の一新が与えられる必要がある。御言葉を通して贖いの恵みの深みが分かり、信仰が与えられ、さらに従っていくなら、魂が根底から一新される。造り変えてくださる御方、魂の造り主によって変えていただかねばならない(イザ43:l)。
神が私たちにお求めになるのは、神への信頼における完全だ(マタ5:48、創17:1)。中途半端な信頼になっていないか、神と世、神と自分に兼ね仕えてはいないかを点検したい。
身も魂も神に献げて、魂の深みまで一新されたい。変貌された魂にされて、いつも神の御心に沿った歩みをしたい。なぜなら、世の終わりは近づいているからだ。再臨されるキリストの前に立てる者となりたい。