臨在の主を仰いで
イザヤ41:8-16
イザヤの時代、アッシリヤが中東の覇権を手中にし、ユダ王国は大国の傘のもとで一応安泰だった。ウジヤ王の下、国はソロモン以来の繁栄ぶりを見せた。しかし、繁栄の陰に腐敗が広がり、バアル信仰が浸透し、預言者や祭司は堕落した。神殿行事は形式化し、いのちのない見せかけの礼拝が繰り返された。そのような中で、イザヤは預言者として神に召された(6:8)。彼は神のみ心にほど遠い状態のイスラエルを、厳しく糾弾した。
本書は大きく二分される。1~39章では、おもに厳しい裁きのメッセージが、40~66章では、おもに慰めに満ちた回復のメッセージが語られている。不信仰のゆえにイスラエルは、バビロン捕囚となったが、裁きを受けて悔い改める民に、神は慰めのメッセージを語られた。主は義なる神であると同時に、愛なる神であられた。
主はイスラエルの民を、自分が選んだ自分のしもべと呼ばれる(8節)。神は彼らを愛と憐れみをもってお選びになった(申命7:6-8)。さらに神は彼らを「わたしの友アブラハムの裔だ」と呼ばれる。アブラハムは神の友だった(ヤコ2:21-23)。彼が最愛のイサクをも神に献げ、本気で従ったからだ。イスラエルは、そのアブラハムの子孫だと呼ばれているのだ。
罪を犯して神から離れ、偶像礼拝に陥り、滅亡が宣告されたイスラエルだ。しかし神は彼らを惜しみ、忍耐をもって導かれた(詩78:12-18、40-42)。ここに神の真実と民の不真実を見る。その民をもなお愛された神の真実はどれほどのものだろうか。神は、悔い改めた彼らの罪を赦し、アブラハムの子孫と呼ばれるのだ。
さらに「恐れるな。わたしはあなたとともにいる…」(10節)と主の励ましが続く。悔い改めて罪赦されたイスラエル、神への純粋な愛を認められて、神の友アブラハムの子孫とまで呼ばれたイスラエルを、強め、助け、義の右の手すなわち勝利の手で守るという約束だ。
この励ましは、私たちにも与えられている。「ともにいる」とは、傍らにいるというだけでなく、内に住むということだ。神に喜ばれない一切の汚れ、神の御顔を曇らせる不純な思いを十字架につけて始末し、キリストが内におられるという信仰で生きる者となるなら、主は、内側から私たちを強め、助け、支え、勝利の生涯を歩ませてくださるのだ(11,12節、ロマ8:31,37)。
神は私たちに“このわたしを信ぜよ、もっとわたしに頼れ”と言われる(13節)。神が私たちに求められるのは、私たちが神に全面的に信頼することだ。ただ、神は「虫けらのヤコブ…」(14節)と言われる。神は傲慢を喜ばれない。主は徹底的にへりくだることをお求めになる。主は私たちに“私は何の麗しいところもない、虫けらのような者です”と言ってへりくだれと言われる(詩51:17)。そして、砕かれた低い魂で「イスラエルの聖なる者」(14節)である主を仰ぐのだ。そこから勝利の主が立ち上がられる。私たちを「鋭い、新しいもろ刃の打穀機」(15節)として戦わせてくださるのだ。
臨在の主が私たちの前を進まれる。どのような状況の時も、この主を仰いで、この主に強められ、助けられ、守られ、前進していこう。