礼拝メッセージ

礼拝で語られる 聖書の言葉

毎週日曜日に行われている礼拝で語られたメッセージを配信しています。
ところどころ、慣れない言葉も出てきますが、全体的には、平易でわかりやすい内容です。

"キリスト教や教会には興味があるけど、いきなり出席するのには抵抗がある"という方は、
ぜひ配信されているメッセージをお聞きになって、
文字と映像から、雰囲気を味わっていただけたらと思います。

※毎週日曜日の午後に更新されます。

2021.04.18

大いなる希望

Ⅰテサロニケ4:13-18

本書は、紀元50年ごろ、使徒パウロがテサロニケの教会の人々に書き送った手紙で、キリストの再臨について、また死人の復活について、間違った教えに惑わされていたテサロニケ教会の信徒に、パウロが正しい教えを伝えようとしたものだ。本書は現代の私たちをも正しい信仰に導いてくれる。

パウロは「眠っている人たち」(13節)と言う。死んだ人々は、今は眠った状態にある。眠っているのであるなら、目覚める時がある。それがキリストの再臨の時だ。

死の問題は、人類の永遠の課題と言われる。死はだれにでも訪れる。それが早いか遅いかの違いがあっても、死を避けることはだれにもできない。そして、たいていの人は死を恐れる。それは、死の向こうにどういう世界が待っているか、わからないからだ。

しかし、「イエスにあって眠った人たち」(14節)すなわち、キリストを信じ、十字架の救いを受け取った者にとって、死は恐れではない。死は決して人生の終着駅ではなく、天の御国への通過点だ。十字架にかかられたキリストが、三日目に復活されたことによって、信じる私たちに大きな希望が与えられた(1コリ15:20)。その希望とは、終わりの日に、私たちの体がよみがえらされ、栄光の主とお会いできることだ。

私たちの肉体は弱く、限りがある。年齢とともに衰えるし、病むこともある。しかし、キリストの救いにあずかった者は、内側が日々新たにされていく(2コリ4:16)。救いの恵みから来る喜びと平安によって、心がいつも支えられているからであり、やがて来るべき日に、再臨のキリストに迎えられるという希望にあふれているからだ(1ペテ1:3-5)。

キリストは必ず再び来られる。その時、私たちの体は変えられる。その順序がここに記されている。まず「キリストにある死者」つまりイエスを信じて先に召された人々が目覚めさせられてよみがえり(16節)、それから、その時まで生き残って主を待ち望んでいた者たちが、雲に包まれて引き上げられ、空中でキリストとお会いするのだ(17節)。

その日はいつ来るのか、だれにもわからない。盗人のように、妊婦に臨む陣痛のように、突然来ると聖書は言う(5:2,3)。だから、目を覚まして待っていなければならない(5:6、マタ25:13)。ただし、戦々恐々としていなければならないのではない。備えをしていれば、いつでもその日を迎えられる。備えが必要なのだ(アモ4:12)。

私たちのなすべき備えとは、(1)神がどういうお方かを知ること。天地を創造され、私たちを愛しておられる神であることを知ることだ。(2)自分がどういう者かを知ること。まことの神に背き、そのままでは滅びる者であることに気づくことだ。(3)キリストの救いを受け取ること。罪のない神の御子キリストが十字架で死なれたのは、私たちの罪のためだった。罪を悔い改め、十字架を信じて、罪の赦しの救いをいただきたい。

この備えをして、やがて再臨されるキリストを待ち望みたい。そして私たちもキリストと同じ栄光の姿に変えられ(ピリ3:21)、栄光のキリストに迎えられ、神の御国で、先に召された懐かしい人々との再会を喜び合いたい。

この世では、様々な困難や痛みや辛苦がある。時にはそれらに押しつぶされそうにもなる。しかし、目を上げて主を仰ぐなら、御言葉に示された大いなる希望をもって進んで行くことができる。