神に近づきなさい
ヤコブ4:1-10
この聖書の箇所に、世にあるクリスチャンの取るべき態度が示されている。クリスチャンとは、キリストの十字架の贖いによって世から召し出された者で、もはやこの世のものではない(ヨハ17:16)。私たちは、この世に生かされているが、キリストによってこの世に遣わされている(ヨハ17:18)。
そのような私たちのあり方は、神中心であれということだ。具体的に、神に従え(7節)、神に近づけ(8節)、主の御前でへりくだれ(10節)という三つの命令がある。
1.神に近づけ
新約時代に生かされている私たちにとって、神は近づくことができる御方だ(ヘブ12:22-24)。キリストが十字架にかかられたからだ。
神は、御子イエスを私たちに与えて、まずご自分から私たちに近づかれた。御子は私たちと同じ人となり、神からも捨てられて十字架にかかられた。私たちは、罪の悔い改めと十字架を信じる信仰により、罪の赦しの恵みをいただくことができる。
私たちは神に近づけない者だったが(エペ2:1-3,11-12)、神は御子を十字架につけ、私たちへの最高の愛を示された(ロマ5:8)。こうして私たちは、十字架の血によって、はばからず神に近づくことができる者になった(ヘブ10:19,20)。
しかし実は、救われたままでは、真には神に近づけない。自我、肉という隔てるものがあるからだ。本書の読者である離散するクリスチャンたちの中には、「からだの中で戦う欲望」(1節)が原因で戦いや争いがあったが、これは私たちの姿だ。私たちの内には、自分が一番可愛いという、己れに対する愛着がある。これが、パウロが「私のうちに住んでいる罪」(ロマ7:20)と言う自我だ。
恵みを得られないとするなら、その理由は、求めないこと、あるいは正しく求めないことだ(3節)。求めないとは、明らかな拒否や無関心であり、正しく求めないとは、自己流で、「悪い動機で」しか求めないことだ。
神は、私たちが幼な子のように求めてくるのを待っておられる。与えられると信じて、無心に、熱心に求めたい。本来立つべき立場、つまり罪の赦しのみならず、内にキリストが生きてくださるという聖潔(きよめ)の恵みをいただいて、神に求めていきたい。
肉の性質は二心であり(8節、マタ6:24)、これが真に神に近づくのを妨げる。神から隔てる自我が全く始末され、キリスト内住の信仰によって、真に神に近づく者になりたい。
2.神に従え
神に近づくのは、従うためだ。イエスが私たちを贖ってくださったのは、私たちを信仰の従順に至らせるためだ。主は神の栄光を捨て、十字架の死に至るまでの従順を示された。私たちをも主のように、喜んで御心に従う者にならせるためだ。
イエスの従順は、父の御心でないなら何一つしないが、御心ならば一つ残らず従うという、徹底的なものだった(ヨハ5:19、詩40:8)。このキリストがわが内に生き給うとの信仰に立つなら、私たちも神の御心に喜んで従う者になる。二心の者ではなく、主を愛する愛と従順一本で進むのだ。
3.主の御前にへりくだれ
イエスは、神の右の座から十字架のどん底まで下られた。だから神は、イエスを高く引き上げ、復活-昇天-ご即位の栄誉を与えられた。神は、へりくだる者に限りなく恵みを賜う(6節)。私たちもキリストのごとく神の御前でへりくだった者とされたい。
神への信仰、従順、御前での謙遜をいただいて、神中心の歩みをする魂に、主は恵みを惜しみなく注いでくださるのだ。